反出生主義の不可能性を論じることはもはや意味をなさない

この記事を一言で無理に要約すると

「では、社会改革を進めよ」である。

 

この記事について

・当然ながら私の主張を如実に示すものではない。

・特定の誰かを傷つけるものではない。

・出生主義者・反出生主義者のどちらに対する攻撃にも使われるものでない。

・不快感を覚えるならば読む価値は無い。

・この記事の多くはあまりに主観的であり,根拠に乏しい。

  ゆえに,議論に使うには不適切である。(あえてそうしてある)

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 現代思想9月号において,ベネターのアンチナタリズムについての記事があった。さらに近くには永井均氏と川上未映子氏の対談でも反出生主義は語られ,私はその対談を伺ってはいないものの,永井氏はその後のツイッターで反出生主義の議論を定式化したうえでこのように指摘している。

 

  また,詳細は買って読んでいただくとして,現代思想9月号において吉沢文武氏が行った吟味においても,ベネターの論理の定式化と欠点の指摘が行われた。そのうえで,ベネターのような正当化以外にも,反出生主義が導出しうることも認める。詳細は読んでいただきたい。以下に,私の話を展開する。

現代思想 2019年9月号 特集=倫理学の論点23

現代思想 2019年9月号 特集=倫理学の論点23

 

  「反出生主義はいかにして可能か」という議論について,何度かこのブログにおいても触れてきたし,以上の議論と同様に不可能であることを示してきた(当然,それぞれ違いがあるし私のに至っては示せているかが先ずあやしいが)。ところが,これについて考えるうちに,倫理的な揺るがしの問題ではないのではないか,少なくとも日本語での議論が活発になってきたころに,一体なにが起きたのだろうという疑問が湧いてきた。インターネットを徘徊すれば,あらゆるところで反出生主義への反論があり,また,反出生主義者だった者が思い直して子供を作るなどの”元当事者”の思いが綴られていることもある。これは哲学的議論以上に,日本社会についての考察に持ち込むべき問題ではないだろうか。

 ベネターの提唱した反出生主義と,それに追随する人々に,反出生主義の不可能性を説いたところで意味をなさないのは想像に難しくない。そればかりか,そんな説教をされた側は不愉快な思いさえするだろう。なぜならば,彼らの苦しみは反出生主義の不可能性という事実などには消し去られない苦しみだからだ。

 この苦しみと,反出生主義のキャッチフレーズ的な「生まれてこなければよかった」が呼応した時にこそ,いよいよ思想が日本で広がるのである。それは他でもなく,日本(に限らないので,人間の世界と本当は言ってしまいたいが抑える。また,日本語話者と言ってもいい。とにかく,ここでは日本という政府の単位を使う事で,行政でカバーできる範囲でどうにかできないかという話がしたい。別に日本という観念に特別な思い入れなどない。)ではこのような苦しみを持つ人が多く居るということにもなる。

 ここで私が恐れているのは,反出生主義という思想に同調しつつも,その不可能性について感知していない反出生主義者と,反出生主義者ではない人たち(出生主義者ではない人たち)が曖昧な議論をして両者の溝を深めてしまうこと。また,個々の苦しみの主張が反出生主義という形で行われるせいで,個々の苦しみの詳細をできる範囲で解決しようとすることが第三者,行政にとって不可能なものになってしまうことである。(話はズレるが,これは私が党・代表者による選挙に覚えている“手の届かなさ”に近いものである)個々の苦しみを個々の苦しみとして処理するだけではなく,極力それが起こらないようにするために拾い上げて解決していかなくてはならないことには変わりがない。

 ここまで述べてこなかったが,このような解決をなそうとしない限りは,私は反出生主義の思想に触れることは良いことであると思っている。これは,議論への反論に対する矛盾した考えではない。正当化できないことを認めた上で,むやみな出生には反対することは可能だ。むしろ,感情的に批判するよりかは「なぜ不可能なのか?」を問う事は意義深い。反出生主義者らの言うとおり,生まれてくる子供は時代・環境を選べない。であるならば,当然そのような子たちは「生まれてこなければよかった」と思うだろうし,そうなって苦しみながら一生を終えてしまう”とすれば”,第三者の私からしても,それは非常に苦しいことだ。このような事は避けたい。だが,苦しみを減らすように社会に働きかけ,その対象がこれから生まれてくるものであるとするならば,反出生主義としてそれは成り立っているだろうか?この疑問については前の記事でも述べたが,彼らが反出生主義を掲げる原因が無かったら?ある団体は,苦しみをなくすことができるならば遺伝子操作などで苦しみをなくして,さらに反出生主義を推し進める。しかし,苦しみを感じなければ,あるいは最小限にまで抑えることが出来ると保障されているならば,生きて楽しみや幸せを享受する余地を捨てることにどのような意義があるのだろうか。

 最後に示したのはベネター以外の反出生主義の主張である。

 

 ”すべての苦しみがなくなっても,我々は絶滅するべきである”

 

 これこそ,究極的な反出生主義の形であり,当然,これに論駁することは私は今のところ不可能であると見える。また,この主張はどのようにして生まれるのかも分からない。(地球にとってとか,宇宙にとってとか,人間以外の動物にとって良くないという話からもってくるとこれは論駁の余地が多分にあるが,そういうものを一切持ってこない限り,これについて何も述べることが出来ない)

 

 

 ・・・一番残念なのは,現時点では無思慮な出生をする者の大部分に,出生について深く考える者たちの声が届かないであろうことである。極端に言えば,反出生主義者たちが皆死んでしまっても,何も考えずに出生する人間は出生をし続けたとして,これで進歩があるかは疑問である。どのような者であれ,自分の苦しみから逃れてこのことを済ますとしないのであるならば,不幸な後世をどうにかして減らすことから始めるしかないのではないだろうか。それこそ,いきなりヴィーガンになるのではなく,無駄な肉食を減らすことから始まるように。