子を産む

 ちょっと賢い人で、割と反出生主義的な人が多くなったように思う。これは肉体と精神をきつく分けたことに端を発することに他ならないだろう。そこでは理性や他者(これも理性の一部とみなしてよいと考えます)が引き出され、いかに出生が悪であるのかが説かれる。ここで、多く主張される2つの点に反論を付してみたい。

 

1.生まれるという事は誰かを他害することである。

 生まれたからには他害をするというのは根拠のない詭弁だ。何をもってして害であるかが実に恣意的で、この言葉の指す領域が明確でない以上はまずそこを明確にして主張を行うべきである。仮にこれが、家族外における人間関係の間に起こる害を指しているのだすればその互恵性による利益を度外視しているので一面的な言明であるだろうし、地球環境や生態系(この言葉も曖昧である)に対しての懸念であるならば、その保護という価値観を肯定したとしても人間中心的な価値観に近く、どのように論を広げたとしても完全な反出生主義となってはその保護も、また人間という一つの系列の破壊行為に他ならない。またこれは人間疎外主義と言っても良いだろう。人間中心主義と表裏をなす極端な考え方である。

2.子が幸せになれない、人生は辛いものである。

 これは極端なペシミズムの主張であると看做す。未来は今を生きる私たちに対して非常に弱い立場にあり、私たちが今から完全に生殖を辞めたとしたら未来には人間のない世界が生まれるだろう。きっとこれが理想とされる世界なのであるが、ここでは現体制や生活様式、価値観が固定されたものであるということが暗黙に前提されている。

 私たちはこれから、やろうと思えばいくらでも修正が可能で、またその道を探究せずに良い世界の可能性を潰すようなことは、最終的に人間が享受可能な幸せが激減してしまうのではないだろうか。いずれにせよ、これはパスカルの賭けのような話である。

 

 以上までに、試験的に反論を加えてみた。気づいている人はいるかもしれないが、ここで取り上げた反出生主義は強い反出生主義に立つ者から起こる主張で、人口過剰や無計画な出産、食糧不足(これもはなはだおかしな話だが)に対しての制御の立場についてはある程度は妥当な気がするのでただ一言付すに済ませる。それは果たして反出生主義と言えるのだろうか。