私の幸せってなんだったっけ

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 他者の幸せについては実に深く考えてきたと自負しているが,私自身の幸せってなんだったっけ。というのが,今日復活していた希死念慮と闘っているうちに湧き出てきた疑問である。

 今まで,あまりにも自分の幸せを疎かにしてしまっていたから,自分にとっての幸せというのがなんなのかについてすっかり忘れてしまっていたのだ。他者の幸せのために行動することが私の幸せだと思っていたが,それは畢竟他者の幸せであるから,私自身がもつ独自の幸せではない。これは,つまり他者の振る舞いに左右される幸せであり,真の意味で自身の心の平穏に直接かかわる幸せではないのだと,今更ながら悟ったのである。

 自身の中に幸せを見出すことよりも,自身の苦しみを消滅させて心の平穏を保つということを,私は美徳としていたのだと思う。つまり,他者の不幸せについては全て自身の行いの不始末として捉え,すべてを己の内に抱えこんでから己の苦しみを消滅させることで,私は幸せ・平穏を得るという事が出来ると信じていた。

 どうやら,そうではないらしい。私自身の幸せを考えるとき,他者の幸せをすなわち幸せとするのは間違ったことではないのであるが,自身において完結し,享受する幸せとの比率がすこし間違っていたようだ。

 私は何も望まないことで,何も得られない苦しみから逃れていた。私は何も所有しないようにすることで,失う苦しみから逃れていた。ところがこれらは,私自身の孤立,孤独感に拍車をかけていた。

 この考えの多くは,私が人生において見出したことで,かつまた仏教にも似たような考え方が多い。しかしこれは仏教から得た学びではなく,私自身が考えたことを仏教の考えでも展開されていると感じてそれに接近し,安心していただけだ。結局は,自分の考える事と同じだからという事で仏教の言わんとすることをあまりうまく理解しないままに,オリジナルな苦しみの消滅方法を実践していたにすぎなかったのだ。

 無私を実践する上で,私は本当に私を無にしてしまっていた。個人的な願望は全て後回しにされるものであることが日常だった。ところが,どうやら今はそうしなくても幸せに生きていけるらしい。

 前置きが長くなり過ぎた。この様に書いていると,まるで私が優しさを捨てて傲慢に生きてやろうという風に考えているのではないかと思われてしまうかもしれないが,そんなことは毛頭思っていない。

 他者の幸せを願い,他者を幸せにしつつ,自分の幸せにかかる領域を一度確保してみるというのが,本稿の狙いである。とりあえず,私の煩悩をここに書き連ねて,今後の他者の幸せと自分の幸せをどのように両立させていくことが出来るのかについて考えるヒントにしたい。

 ・きちんと栄養と睡眠を取り,最低限健康に暮らしたい。

 ・自分の居場所というものを自身の心からみとめ,心の平穏を得たい。

 ・これまで通り勉学に励み,他者の幸せになるような貢献をしたい。

 ・哲学書をじっくり読んだり,思索をしたり,哲学史を勉強したりしたい。

 ・また,このことを通じて,社会に貢献したい。

最近,私は本当の意味での心の安寧も,安定した生活がなんたるかも知らなかったのだと気づかされた。実直で素敵な人物のおかげで,私が今までいかに不安定で,苦しみに満ち溢れた生活をしていたかを考えるきっかけを得られた。このことについて,深く感謝の意を示したい。何事も,まずは私の生を安定させ,自分自身と,そして今一番近くにいる人を尊敬し,幸せにすることから始まるのではないだろうか。