女性哲学者について【拙HPより移植】

1:アレキサンドリアのヒュパティア(Hypatia of Alexandra) 350~370-415

Hypatia of Alexandra

 

ユークリッドの原論などを編纂したとされるアレキサンドリアのテオンの娘。数学と哲学についてネオプラトニズム創始者であるプロティノスとイアンブリコスから指導を受け、後にアレキサンドリアネオプラトニズム哲学校の校長になったが、哲学に関する著述の存在が確認されておらず、彼女は特に数学と天文学に専念していたとみられていて、天体観測儀と液体比重計の発明についても彼女の助言があった。 AD5Cの始め、パラバラニ(過激派修道士)による迫害により処刑される。これは、彼女の発言や思想がカトリック的真理の受容の妨げになるとみられたことが大きく、彼女の死は“哲学徒の殉教”と呼ばれ、のちのキリスト教批判に熱を与えることになる。宗教的に多様化していた街でのこの事件は“古典時代の終焉”=多様化した世界への契機ともみられている。啓蒙の時代が来ると、ヒュパティアはカトリック主義に対するものの象徴として、AD20Cになると女性の権利を主張する場合やフェミニスト運動初期の象徴としても使われる。


ヒュパティアの死がアレキサンドリア図書館とひとまとめにされることが多いが、彼女の死と図書館の破壊に直接的な関係はない。
cf.
Wikipedia:Hypatia of Alexandra
Ancient History Encyclopedia:Joshua J. Mark氏による記事

2:マリー・ド・グルネー (Marie de Gournay)   1565-1645

 

Marie de Gournay

フランスの作家、小説など多くの文学作品を残した。処女作はLe Promenoir de Monsieur de Montaigne,1594(モンテーニュの散歩道)、代表作はÉgalité des hommes et des femmes, 1622 (男女の平等)やGrief des dames, 1626 (女性の不満)などがあり、女性の偉人について研究で女性にも学習の能力を実証したうえで,女性にも平等に教育を受ける機会を与えるべきだと主張した。この主張には当時のユグノー戦争でプロテスタントと対立していたカトリック教徒としての宗教的な思想が土台にあり「神が同じくして創造し給い、同じく栄光を授けられたものだから、男女の美徳もまた同じものである。」と論じている。彼女は、女性が教育をほとんど受けていないことを考慮すれば、女性たちが無能で無知であり自分の容姿ばかり気にすることは驚くようなことではないと言い切り、機会、教育や権利を等しく与えれば女性も男性と同じように活躍できると主張した。さらにGrief des dames, 1626(女性の不満)では、女性は不動産を所持せず、不自由で役所にも行くことができないと女性の不平等な扱いについて記述している。

彼女は独学で人文科学やラテン語を学び、これが彼女と哲学者モンテーニュの作品との出会いを導いた。1588年にモンテーニュと邂逅した彼女は彼の養女になり、それから彼女は彼の著作の編集と解説を勤めて、彼の死後に随筆『エッセイ』1595を編集して出版する。パトロンを得た彼女は、その他にもクリスプス、オウィディウスウェルギリウスタキトゥスなどラテン文学作品の翻訳、詩を著し、のちにアカデミー・フランセーズ(フランス国立学術団体)の創立の手助けをした。彼女は79歳で死去しサントゥスタッシュ教会に埋葬され、現在も彼女はフランスの文学批評や強固な男女平等の主張をした人物として認知されている。



彼女の作品はこちらでも見ることができる。
cf.
Project Continua-Marie le Jars de Gournay
Marie le Jars de Gournay