何かが不足していて,何かが過剰である

 (思考実験)

 表題は,その抽象さから察せるように,実はなにを入れても当てはまる汎用性の高いフレーズだ。ここでこの数日考えていたことを当てはめてみて,それがどれだけ事実と合致するか考えるとっかかりにしたいと思う。

  §人間の処理能力が不足で,情報が過剰である。

 科学の知識を含むコミュニケーションをする上で,対象の理解の浅さや全体としての整合を欠くようなデマに振り回され,それらを前提として受け入れてしまうと混乱に混乱を招くのは想像に難しくない。文系と理系(何度でも言うが,私はこの括り方が大嫌いだ)の共通の基本的な能力である推論は,前提の正しさによって帰結の正しさが変わってくる。人間が知識として承認できる筋道の立て方としての推論能力・論理性というのは文理に変わりがあってはならない。どちらにおいても,人間が共通了解をするためには論理性が不可欠なはずである。

 論理性をひとえに形式論理と同一に扱うのは間違いなのであるが,少なくとも日常レベルの平易な推論というのは,三段論法など形式的なものに還元できると考えている。(果たしてそうだろうか?)そのうえで,それが形式的なものである以上,前提の吟味というのは推論に関わらない。これが全ての混乱の源である。

 例えば,理学系の知識に疎い人間が,誤った認識に基づいて正しい推論をし,それが世に広まるとする。そのときに,世は何を持ってしてこの”前提の誤った正しい推論”を受け入れるのか。

 他でもなく,これは推論の形式的な正しさを感じるなにかを我々が共有していることを示唆し,さらにこれは,形式的なこと以外についてはその対象にまつわる正しい知識に依存する,つまり,形式論理においては前提を吟味しないという状況に準ずると看做すことができる。

 混乱の源泉は,正しい推論と間違った知識に収束する。推論の正しさは私たちが共通に持ち,その正しさを判断することが可能であるが,そこで用いられた前提(知識)について検証することは容易ではない。私たちは,知識に対する横着によって混乱を引き起こすとも言えるし,もしそうならば,推論の流れの正しさを,推論による論証の正しさと混同する癖が抜けていないとも言える。