コミュニケーション

 私にもっと能力があれば,と思うことがしばしばある。知が人間にもたらす階層性の影響は計りしれない。さらに,知にも様々な在り方が認められるせいで,その階層の実態はより掴めないものへと変容している(今この時もだ!)。

 科学知識を伴うコミュニケーションの難しさ,哲学的議論におけるコミュニケーションの難しさの本質は同じであると考える。どれも,日常会話で起こる単純な齟齬と同じことがこれらのコミュニケーションでは起きるから,それらの違いは用語の複雑さ・日常的な語との遠さ,が問題になるだろう。 誤解誤謬齟齬の温床である進化が一番わかりやすい”わかりにくい科学用語”の例だ。

 知の階層性というのは,このまま解剖していくと個体の持つ語彙の階層性とも言うことが出来る。あるものについて知っている・知らないを説明するときには当然に言葉が伴う。我々が幅広いことについての議論を上手く共有するには,幅広い事への理解が必要で,その理解を共有するためには言葉が必要だ。

 存在についても,私たちは存在とはなにかよくわからないままに使用していることが殆どだ。あるいは「存在とはなにか」と訊かれたときに答えられないが,日常では使えてもそれ自体を問われると回答できない,つまり,言葉の示すものについてそれ以外についての言及を伴わなければ成立しないようなことについても,あまり深く考える機会は多いと言えないだろう。

 なにごとであっても,間主観的であることを目指すときに,畢竟,2項以下になれない性質があるというのは間違いではないだろう。この最小の2項になって齟齬が一切生まれないようにするには,当然それぞれの使う言葉についても共有されなくてはならない。私的言語を認めた場合,それはコミュニケーションを考えるときにどのような立ち位置にもならないだろうが,私的言語を認めなければ,造語をすることが出来ないのではないか。

 話が逸れてしまったが,人間の分業が進み,大学でも専門化が強くなっていく傾向のある中で,殊に文系と理系の断絶が深すぎるように見える。(こんなことを言っているが,文系と理系という区別が私は大嫌いである)

 それぞれの階層は高いものであるが,お互いを参照するには階層の差が大きすぎる状態になってしまうと,これから先,断裂はよりひどいものになり,文化的にも学術的にも不毛な世界になってしまうのではないかと危惧している。(私が現状を捉え損ねてこう思っているだけだという事であって欲しい,杞憂であって欲しい)