適応する事、周りを適応させること

 最近思う事がある。私は常に周りに適応するように生きてきたし、それをするのが善であるという風に行動してきた。これは適応に関する非常に一面的で狭い視野であると今では思う(それでも未だ適応したような行動をすることが多い)が、なるほどこの狭い視野が私を常に悩ませてきたのであった。過剰適応というのは、私の場合ここに当てはまる。

 場に適応することを学習してしまい、相手のあることでは全てを相手に合わせることが善であるように勘違いしていたので、おそらく社会生活における、特に契約書のない友人関係、家族などの人間関係でかなりストレスが溜まっていた。

 適応する素振りはうまい癖にそれに心までなりきることが出来ていないのがさらにストレスであったように思う。この適応の仕方が私自身の苦しみの大部分の源であり、これが”自分に裁量のない人生”を感じさせていたのだろう。

 周りが悪いのではなく自分が全面的に悪かったと常々思い、周りの気持ちを尊重しすぎるがゆえに自分の気持ちを常に抑え込んできた。私の希死念慮についても、これが原因の一つであることに気が付いた。いまや問題は明瞭である。

 

 難問は分割せよ というのはまさにその通りであるが、そもそもどこからなにを分割可能なのかという点で私は大いに迷った。問題をどう分割すればスムースになるのかを知るには、多くの知見を持たなければならないだろう。これは、直観の作用に近いのではないだろうか。(こんなこと言っているが、未検証なので真に受けないで頂きたい)

 とにもかくにも人格形成の時期にこのような思いをすると、長い間悩みを引きずることになるのだな。と私は改めて感じる。

 しかし、その分曲がりなりにも悩み、自分にとって何が善くて何が悪いのかをある程度は弁別できるようになってきたかもしれない。独善的でないように、この価値基準は随時見直されるべきであることも意識して、これを忘れなければ。

  あくまでも私の場合はこうであったという話であるが、これが場に適応することだけを考えていないかという自分への問いかけになり、誰かの人生が生きやすくなる手掛かりになれば幸いと思い、ここに記事をまとめた。内容を簡素にするために多くの説明を省いたので、読みやすくはなっていると思う。

 最後に、私が悩んでいた時期に読んでいた本をいくつか紹介する。振り返ってみれば、現代の感覚からは容認できないようなことが書いてあるし、真に受けるのはよろしくないという事は述べておく。また、私の周りには理解している人が多いとは分かっているが、私自身ここで紹介した本の内容全てに賛同するわけではないことも表明する。これらは自己啓発本ではなく、哲学書であるので、その全貌を知らずして言葉を振り回すことさえしなければ、何かしら得るものはあるはずである。興味をもったらどんどん自分で調べてみて頂きたい。 

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

 

 

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

 

 

 

 

 

ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫 赤510-1)

ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫 赤510-1)

 

 (特にこれは訳者解説から読み、批判的に眺めることをおすすめする。)