生物の権利についての実験的論証

人間は生物である。

植物,動物と分類した時,それらは生存のための条件を異にする。

動物には人間も含まれる。

人間の内には,人間が理解可能な言語が存在し,認識も存在する。

1:人間の中でも言語は統一されておらず,さらに同一の言語を用いている集団でも,ある概念に対応する認識とそれを表現する述語の形式は同一ではないことがあり得る。

2:つまり,人間の中でも自分の言語と同一の言語を用いていても,その個体の意図する意味が伝達しないことがある。

 

§─

(2019.7.15 追記 この章については,S.Beauvoirの着眼点に酷似していた。無論,私の論考なんかよりずっと細密であるから,参考にされたい。私の不勉強はこういう所で見られる。)

(2019.8.31 追記 さらにJ.S.Millとも近い。あとは言うまでもなく私の記事を読むより彼の本を読んだ方が5億倍程よい)

(2019.9.2 これは古典的なものに分類されるが、世論で見られる男女差についての理解は、古典的な理解にすらしていないように思われる。その道の人にとっては当然のことなのかもしれないが、基礎を確認しなければその上に立つ建物が安全かどうかは推れない。)

 

人間は生物である。

生物には生物学的に認められる性差が存在する。

また,性差は生物学的に認められるものだけを承認しても,文化的に存在する人間特有の疑似的な性差(心理的性差,社会的性差)を導出することは出来ない。

よって,生物学的に認められる性差以外は存在しない。

社会的に認められるとされる性差は,社会の中で生み出されたものであり,問題の前提となる性の認識がそもそも誤っているため,社会的な性に関する論争のみでは決着がつかない仮象の一つである。

人間以外の動物は人間のものに匹敵する社会を持たず,社会的性差の問題をもたない。

ゆえに,社会的性差の解消のために,人間以外の動物の生態を引き合いに出しても意味をなさない。

人間における性差の問題に限って述べるとき,そもそも社会的な性差における扱いは正当化されないので,反証する必要もない。

社会的な性差,ここでは男女の機会の不平等についてだけ撫でるとしても,それらは時間をかけて認識を変えることで平等を目指すことは十分可能である。

脳の性差については立証されておらず,仮に認識の癖が存在するのであれば,それは器質ではなく言語や文化圏によって生み出されたものである。

認識の癖を心理的性差と同一のものと認めると,認識の癖は社会的性差の一部であるので,つまり性差には生物学的性差と社会的性差しかない。

ところが,社会的性差は仮象なので,人間には事実として認められる以上の生物学的性差以外存在しない。

これを踏まえた上で,社会で人間の性別に関わらず平等を期すことは可能であり,社会で人間が生きる性を選択することを容認したうえでも,平等を期した社会を構築することは可能である。

そのうえで,例えば男性に力が強い傾向や,女性に子育てをする傾向が見出されたとしても,事実そうであるということから男性がそうあるべきであること,女性がそうあるべきということは主張できない。

何故なら,社会的性差が成り立たない以上は,社会的な性の役割がどうあるべきかという議論も成り立たないからである。

この認識を受け入れて,社会における在り方を選択し,互いを侵害することなく共生することは不可能ではない。

ところが,1:人間の中でも言語は統一されておらず,さらに同一の言語を用いている集団でも,ある概念に対応する認識とそれを表現する述語の形式は同一ではないことがあり得るので,まずは社会の改築のために,私たちが出来る限り共通の認識を持つ必要がある。

改築の必要性についての認識を可能な限り共有するためには,語彙・知識・妥当な推論の能力が共有されていなければならない。

つまり,平等のための社会改築を実現するには,人々に少なくとも同水準の語彙・知識・妥当な推論能力が無ければならない。

このことを,現存する人間と実現することは困難を極める。

なぜならば,すでに社会的性差を受け入れ,そのうえで生き抜き,その社会的性差の見かけ上だけの空疎な正当性を信じる者が存在するからである。

もし,現存する人間が平等な社会を望むとするならば,それは未来にある。

世代を経るうえで,現存する人間が未来にも残存していることはない。

社会的性差は,その認識をもつ人間と共に絶滅する。

しかし,個体は死後もその思想を後世に残すことが出来る。

つまり,現時点で社会的性差の問題を解消するために出来ることは,現時点での自分の不当な社会的性差による扱いに抵抗することと,後世の為に事実を保存することである。

故に,社会的性差を解決しようとするときには,問題を共有する者と,これから社会を構成する人間がその見込みを持っている。

もし,社会的性差の問題が解決し,人間が社会で自由な選択をして生きることを認めるとき,起こる不平等は人間全体の不平等に関する問題であり,ここで男性,女性は問題になりえない。

このことからも,社会的性差は仮象であることがわかる。

 

§

社会的な差別が生物学的なものから一切導出できないならば,社会を構築する上では全ての生物が平等に扱われるべきである。

何故ならば,1:人間の中でも言語は統一されておらず,さらに同一の言語を用いている集団でも,ある概念に対応する認識とそれを表現する述語の形式は同一ではないことがあり得るから,平等な社会の構築を想定するときには,端的に言って認識を共有しないものを対象とするので,人間と人間以外の動物という区別によって不当な扱いをするのは,2:人間の中でも自分の言語と同一の言語を用いていても,その個体の意図する意味が伝達しないことがある。ことを鑑みると,言葉の通じない人間に対しても公平を期そうとするときに,人間以外の動物の不当な扱いを容認することが,人間を不当に扱うことにも繋がるからである。

であるならば,意識を持ちうる動物も社会的に平等に扱おうとすること,少なくとも不当に扱わないことは,人間も人間以外の動物と同様に意識,さらに言語を持ちうる以上は正当である。

 

§

いかなる場合も,不平等というものが社会的なものを指す以上は,生物学的な事実に関する言明からどんな不平等も,また平等も”正当化”されない。

事実に基づく考察が妥当であり,人間が共生する上で“辛くない”在り方を導出するのが,社会の目的であるとする。

・・・(1部省略)・・・

また,合意の上での生殖を選択する自由を認める事と,反出生主義は両立しない。

ゆえに,出生を求める面としての出生主義も,反出生主義も,生殖の選択の自由を侵害している。

であるならば,どちらも出生が問題となる背景をよく吟味し,その問題が社会にあるのであればそれを結託して解決する必要がある。

もし,解決が為されて,合意の上での生殖の自由を受け入れるとき,ここには反出生主義も出生主義も存在しえない。

しかし,この自由は平等な社会の構築を目指す意思があり,子を不幸にしない努力を出来るものに認められる。

このことは,自由の侵害ではない。

なぜならば,無思慮な生殖は他害であり,他害の自由というものは容認されないからである。

つまり,これは正当な制限の1種である。

 

§

「子を作らなければならない義務はないとするとき,生まれないことによって被る害は存在しなく,不必要な苦痛をもたらすことは悪である」時に,この論証をする者が子供を設けない選択をする自由は侵害されない。

ところが,この論証を信じる自由を認めたとしても,正当かどうかは議論の余地が残る。

生まれることによって享受する幸福が多かったとしても,それまでに受けた害が正当であったということには確かにならないが,生まれないものに関して害,害でないはそもそも論じえないので,仮定は成立しない。

不必要な苦痛をもたらさない限りは,それは悪ではないのであれば,不必要な苦痛をもたらさず幸福を得ることは相対的に善である。

仮に,人体を改造することで苦痛を無くせるのであれば,それらを施すことの出来る人間がいる限り,あえて絶滅をしようとする必要はない。

なぜならば,苦痛を無くす・減らすのが目的であるならば,そのような技術が可能になった時点で出生は問題として成り立たないからである。

 

§

前提の間違った論理的に正しい論証は見かけ上の正しさゆえに,しばしば受容される。

ところが,論理的な正しさと前提の正しさは別の問題である。

ゆえに,論理的な正しさだけを受け入れたとしても,前提の吟味がなされなければ,その論証は無意味である。

 

§

ここでは他人を思うような人間,あるいは理性的な人間しか想定されておらず,非常に現実とはかけ離れた理想の話であるように見える。

ところが,現実にそういった人が多いか少ないかで言うと,少なくともだいたい2世代前に比べれば明らかに多いはずである。

その証左として,私たちは現時点で性差や人間と人間以外の動物について持っていなかった(あるいは広く共有されていなかった)問題について共有を始めている。

つまり,それにまつわる語彙・知識が蓄積され,保存されている事実から,問題の解決を諦めることは不合理であり,正当化は不可能である。

他人を思う行動をしないのは,巡り巡って自分が被害を被る以上,それは不合理な行動であり,その行動が起こることこそあれど,その行動の正当化は不可能である。

しかし,これらの事は私たちが進歩していることを示さない。

何故なら,文化そのものは進歩するのではなくただ拡大するのみであり,それは一意に進歩ではないからである。

それは,性差の問題が発されたときに,明らかに不合理な問いの立て方から起こったし,また,神の存在論証においても,それは人間の認識や知識の欠陥を指摘するものであるから,それらがただ塊として増えるものである。

塊として増えることと,それが知識の量として増えることは進歩的ではない。

なぜならば,例えば古い優勢思想学は,間違った前提による論証であらゆる観点を正当そうに主張したにもかかわらず,現代では否定される部分が多分にあるからである。

ところが,こうした間違いもまた,その塊の一部であり,つまりはひと塊の内に正しいものと正しくないものが共存するから,ただ文字数のようなものとして増えても否定される可能性がある以上は,量が増えるからと言って一意に進歩とは看做せないからである。

 

§

現存する人間と認識を共有することは非常に難しい。

なぜならば,自分の持ちうる認識を伝達するために,それ以外の認識を改めて吹き込む必要が往々にして存在する。

また,現にそうであることとそうであるべきことの区別がつかない場合,何も伝わらない可能性がある。

私たちは往々にして,言葉の曖昧さから問題を引き起こす。

言葉の曖昧さについて無自覚な問題が多い。

また,無自覚でなくとも,言葉は曖昧になる。

なぜなら,言葉について語るとき,それも言葉の域を出ることができない場合は,また対応する存在も厳密であり得ないからである。

 

食べるためなら殺しても良い?

”食べるためなら、相手が人間であれ命を奪っても良い。”

 

 ・人間を含めた動物を全てひっくるめた、種による差別に基づかない普遍的な議論

§ この場合、食べないのは“好きではないから”

 

結論:他にその手段がない状況に限って真であるが、それ以外は偽であるので、全面的に正しい主張とは言えない。

理由:これを容認すれば「人間を食べたいから食べる」を否定できなくなり、命を奪って良い(許可の意図)を採用するならば、自分が殺されて食べるられる事も受け入れなくてはならない。

 人と人の利害関係をできるだけ公平にする立場として考えると、人間の中には自分を食べて欲しくない人がいるので、この主張は相いれない。食べられたくない人が食べられることを強いられてしまう。命を奪う行為に名目は関係なく、集団における合理的行動として、自分が殺されるのを正当化しないために命を奪わないという状況は正しい。どのような形であれ、命を奪うことを容認するのは巡り巡って自身の生存を危うくするので、これは非合理的行動である。

 人間と人間以外の動物が持つ感覚(あるいは意識)を尊重するかしないかという問題は、自分の感覚と他の個体がもつ感覚を尊重するかしないかはほぼ同一の問題である。

  人間と人間以外の動物という以前に、人間の間でも自分と自分以外があると言うのを忘れてはならない。

 人間以外の動物の感覚を尊重する、とわざわざ言わなくても、人間は人間の間で他者の感覚を実際に感じることないままに、他者の感覚の存在を否定していない。他者の痛みを感覚として知ることはできないが、痛みを感じることは”知っている”。

 これを否定すると、自分の感覚が他人にとって存在しないものであることを容認する。つまり、この場合においての問題は”自分が正当に扱われないこと”の問題である。

 自分が正当に扱われないのはストレスで身体的にも生存に不利であるとし、また他害が自己が正当に扱われないことに繋がるのであれば、他害をしないのは自己を正当に扱ってもらい、生存するのに有利であるので、合理的である。

 (ここで取りこぼされているのは、自己を害することも他者を害することも厭わない人間なのであるが、これについての言及は当初の目的から逸脱するので避ける。)

 自分の感覚を暗黙に前提して倫理を構築してきたのであるが、人間で区切らずとも自分と自分以外においての感覚の区別がそもそも明確ではないままに倫理が構築されている。ただ自分と自分以外のものに成り立つ“合理的な”倫理が、人間以外の動物を対象に含まない理由は導出できない。自分と自分以外の関係で不利益を被らないための判断という観点から行くと、家畜ばかりに焦点が当たるために見落とされがちだが、人間よりよほど力の強い野生のサルなどを刺激しないために、無用な行動をしないのはそれが生存に有利であるからだ、とも言える。つまりこれは、倫理としての家畜と人間の関係でなくとも、動物に対する正しい判断である。(ここはもやもやした議論である気がするので誤っていると感じたら撤回する。)

 この手の話ではよく黒人奴隷を引き合いに出すのであるが、彼らの扱いは現在の観点からしてはどう考えても正当化できない(もしかしたら、この体制の下でもっと”体裁の良い”奴隷制度が敷かれているかもしれない というのは示唆するにとどめる。)もので、言語が通じなかったり心的能力が劣っているというのは明らかに不当な判断に基づいた搾取である。それと同じ構図のものが、人間と人間以外の動物の構図に適用されている。同じ人間以外の動物でも、ゴールデンレトリバーとブタの扱いに優劣を決めるのは、白人と黒人の扱いに優劣を決めるのと同じである。それでも、人間と人間以外の動物が違うと思っているのであれば、例えば自分の知らない国の知らない言語を話し、肌の色が違う人間は搾取しても構わないと思うかを考えて欲しい。もし、搾取するべきでないと思うならば、それが人間以外の動物に適用できないのは何故だろう。もし、搾取するべきであると思うのならば、搾取するべき理由は何だろう、そして、逆にあなた自身が搾取されない自信はどこから来るのか。

  人間の内輪で起きて正しくないことは人間を含めた全動物の扱いの上で正しくない ということを導出できるのは、人間と人間以外の動物に差異を認めないという立場だけである。

 

 肉食動物が肉食するのは、彼らにはそれ以外の手段がないという理由であって、なにも彼らを説得する事が不可能であるからではない。肉食動物に説教しろなどと言いだす人物もいるが、彼らは”あなたを殺すしか手段のない人間”にも説得が通じると思っているのだろうか?自分の訴えが通じないからという理由で殺されることを容認するのだろうか。もし可能であるならば反撃するであろうが、家畜として飼われている動物たちはそれができない。

  先述にもあるように、自分以外に感覚を有する人間の立場に考えることを、人間以外の動物にも適用するのはなにも不当ではない。むしろこれを不当とするのは、自分以外の人間の感覚を否定するのを正当化し、それはすなわち自分の感覚を否定されるのを容認するのに等しい。

 このように仮定すれば、代替手段がある現代において、あえて肉食をする必要はないどころか、否定されるものでありうる。そして、(今年、殊更に思い知ったであろう)二酸化炭素量の削減の近道としても、共同体で生活する上で倫理観を練り直す上でも、広まっている科学的認識を刷新する意味でも、肉食について考えるのは有益であり、これはすなわち人類にとって有益であると考える。

 

  食べたい という感情を、言語によって回り道して正当化するのは不可能であるが、食べてはいけない を正当化するのは容易であった。彼の発した主張の真意はここにあると見ている。

  しかし、同様に 食べたくない という感情を言語によって回り道して正当化するのも不可能である。

  よって、この議論を明確に進めるのは、どちらの感情も持たない者か、どちらの感情も持つものが相応しい。そして、私達は相手の立場に立って考えることが出来る以上、どちらの感情も持ちうる。

  ここからいきなり議論の毛色が変わるのであるが、結局は食べたいという感情を否定することは不可能であり、それを否定するのは他人の感覚の侵害でありうる。しかし、その欲求を別のものに向ける余地は残されており、矛先は必然的ではないだろう。欲求の矛先が苦しみを産むのであれば、その軌道修正をした方が良いのはおかしな話では無いはずだ。

そして、感覚の侵害でありうる以上、感覚の尊重を重点におくならば、強い主張をいきなりするのではなく、もっと穏やかに議論しなくてはならない。全てのものの感覚を尊重したいのならば、尚更。

 

どんな主張も、それが感情によって成り立つならば、相反する主張も感情によって成り立ちうるし、どちらかの主張が相反する限りは、すなわちどちらかの感情と相反することになりうる。

感情の衝突が避けられない以上は、一旦は相手の感情をお互いが容認し、あとは理性によって議論が行われるべきである。

 

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 事態を単純化するために、全く面識のない人間同士を想定する。自分を含めた2人の人間同士で殴りあえば自分も痛い思いをする。この時に、生存するかしないかは別として、もし殴り合わなくて済むのであればしないのが生存に合理的である。ところが、前提にあるように自分の生存が危ぶまれるときに相手を殺して食べるのは正当であるので、この想定に「空腹で死にそうな状況」を加えればどちらかの生存のために片方が死ぬものであると考えられる。これは、どちらかが勝利するとどちらかが敗北するゲームである。このような状態が、少なくとも日本の日常レベルで起きていないのは、人間を食べる以外の選択肢がいくらでもあるからである。かならず”敗北しない”ためには、そもそもこんなゲームは避けるのが賢明だろう、そして私たちは実際に人間以外のものを食べることで避けることが出来ている。人間以外の動物の肉食が代替手段であっても、それが必然的である理由はない。あるとするならば”食べたいから”であるが、果たしてそれが動物を殺した肉である必要があるのだろうか。既に食べてきたからといって、これから食べてよいかと言ったらそうではなくなる。肉食は因習の一部であるとも言って良いのではないだろうか。

 

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”人間の中における倫理が正当な帰結であり、人を殺してはいけないことについて人間の中で正当であるという立場を取るのであれば、その帰結の本質が、他者の感覚を尊重するというものであるとき、その倫理は人間以外の動物にも認めるべきである。”

 

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 私が

・畜産(これに限らないが)による二酸化炭素排出量は大きく、端的に人間はさらにひどい気候変動に巻き込まれる恐れが充分にある。

・動物には意識があり、それを尊重しないのは他者の苦しみを考慮しないことに等しい。

・植物は人間にとって必要であり、これを食べることを否定するのは肉食動物が肉食をすることを否定するのと同義で、無意味である。しかし肉食は必要ではなく、肉食の持つ問題を考慮せずに植物を語るのはおかしい。それは、少なくとも意識を持ちうる動物を殺害することを正しいとするものではないからだ。整理して言うと、植物が意識を持ちうるかどうかが分からないからといって、意識を持ちうる動物を殺害することが正しいとはならない。

・肉食の代替手段が存在し、そしてこれからも研究されるものである。

 これらの主張を受け入れる以上は、どうやっても肉食を正当なものと扱う事はできない。かといって、私は周りの人間にこれを吹聴したり、啓蒙するつもりはない。あくまでもこのブログのように、その意図を明確にできる場でしか書かないし、これは単なる考察でしかない。考察には誤りはあるかもしれないので、主義主張として出すには青すぎる。倫理においても、科学的合意の話についても、誤りがある可能性を改めてここに明確に記し、一切の判断の責任は読者に委ねる。

人間初心者

 今回は、恥を忍んで自身の勘違いについて書き残したいと思う。

 長らく、身体的な事については我慢することが美徳であると思っていたし、これは一面的には正しいかもしれないが、常に自分の体力の限界を超えるような我慢をするというのは望ましくないと気付いた。古い考えの家庭で育ったからか、冷房のある環境など、楽な環境は全て「楽をするための」環境であり、しかも楽なものはすべて良くないのだという刷り込みがあったので、冷房がないくらいは気合でどうにかなると思っていた。しかし、どうにもなるわけがない。なんでどうにかなると思っていたんだ。とにかく、そのようにして育ったので精神力は強いかもしれないが、強くしすぎたせいで身体の悲鳴にも気づかないようになっているのは危険であった。

 自分以外の人間に向けられる根性論については、その苦労は無駄であると偉そうに指摘していた筈であるのに、他でもない自分が根性論によって動いていたことが発覚した。最近はあまり頭が働かなくて身体がだるいのは睡眠が足りないからだとか合理的そうに考えていたが、室温についてはまったく考えから抜け落ちていたから、いくら睡眠を工夫しても、何もかも効率が悪いまま改善しなかったのである。

 私は幸か不幸か体力があり、何かに取り組むときは夢中になることが出来る精神力は持ち合わせている。これは、体調の良いときは非常に便利なのではあるが、ひとたび体調を崩していることに気づかぬままでいるときにはどんどん自分を追い詰めてしまい、限界を迎えてしまう。今回も、空調のない部屋で暑さを感じながらも手を打たず、精神と体力でごり押ししたために熱中症になってしまった。そしてこの原因は、単に暑いということではなく、それを我慢するという無駄な苦労を容認していたからだ。これはある意味で自分のコントロールを失っているのであるが、何せずっとこうやって生きてきたから、自分に向けられた「しなくていい苦労はしなくていい」という指摘の真意を取りこぼしていた。なるほど、しなくていい苦労はしなくて良いのだろう。睡眠不足だと勘違いしてカフェインをぶち込んだりしてはいけない、悪化するから。マジで。

 気づいただけでは、進歩であっても解決ではない。これから環境を整えていくべきなのであるが、どうやら自分の根性論は根深いものであったようなので、成就するには時間がかかりそうだ。せめて、環境が良くない状態で無駄な根性論を発揮するのは、どうにも良くないという事だけはしっかり念頭に置けるようにはする。多分良いことも悪いこともあるので、悪いことに気づけたくらいはしっかり覚えておきたい。それに、他にも多分、良くない習慣がある。

 

と、体調が悪く朦朧としたまま書き散らかしたが、根性論が全て間違っていることもなんとなく気づいているのに少しは肯定しようという書き方をしたように思う。それだけ、価値観の中心をなしていたのではないだろうか。全く別の人にとっては瑣末で馬鹿げた問題である気もするので、それだけに恥ずかしいし悔しいから、少しは正当化したいと思っているのだろう(そして私はそれに失敗するだろう)。咀嚼には時間がかかりそうだ。

 

また、私と同じような失敗をしていることに気づいていない人も読者には居るかもしれないので、見直しのきっかけになればいいと思う。

 

でも、私が知らないだけで、こんなの常識であるかもしれない。

書き残す意義

   考え事をする上で、煩雑なことを厭わないのであれば書き残すことをオススメする。

  あまり自分の思想を書き出すことを何らかの理由で避けていたりする人に強制するようなものではないので、そのような人は、考え事を書いている人はこんな感じで書いているのだなというのを読んでみるくらいで構わない。

   今回はもっぱら私の取っている手法を紹介するものであって、必ずしも読者の方々にとって同じ方法が有益とは限らないのであるが、思索において物事を書き残すことの有益さとは関係がないので、その手法については読者に試行錯誤する余地を与えたままに、書き残すことの有益さと意義について述べる。

   考え事 というのはこの時点で非常に抽象的な概念であるので、中でも書き残しておくべき考え事に話の焦点をしぼり、さらにそれがどのようなものを指しているのかを明晰にしたい。私の考えている事を普遍的なもののように述べるのは不可能であるから、あくまでも“私の(考えうる)場合は”と言うことを強調する。その中で同意できるものがあれば、筆者という“私”と、読者の“私”にあるものをある程度共有するのとが出来ていることになるであろうが、必ずしも同一のものに還元されるとは限らない。この判断は読者に委ねる。

以下に、書き残すべきであると考える考え事について種類を並べ、理由を付す。

 

    書き残すべき考え事の種類

 1.将来的に振り返る必要が、自分の中の体系を生み出す上で必要そうで、かつ自分が書き残す価値があると思われるようなもの。

    これは自明に書き残すべきである考え事である。最初はその言語化に苦慮するやもしれぬがその苦慮を乗り越えて縦横無尽に、頭の中を網羅し整理する力を養うと思えば非常に有益な行為である。だいそれたことを書く必要は無いし、たとえ後に自分の書いたものが誤りであったことを認める心を作ることにも繋がる。

 

 2.ふっと降りてきて、たとえそれが後に読んで無意味でナンセンスな命題。このようなものであったとしても、それが思いつかれるのには理由がある。

  私もよく道端や部屋で閃くのであるが、これを書き残しておくと後々面白いアイデアの接続が起こる。これは雷のように光って消えてしまうものなので、閃いた途端そのままの言葉をLINE KEEPなり、手帳なりに素早く書き留めることが求められる。あるいはこれは上手く閃きの源泉を特定出来始めてからは、その源泉から自明に導き出せるようになることが多くなり、必ずしも直ちに書き留めなければならない事にならないので、この書き残しは閃きの源泉を明確にするための書き残しとも言えるだろう。また、蛇足かもしれないが、この閃きの源泉こそ自身の中にある体系によるものでありうる。

 

3.素朴な疑問

  これも言うまでもなく、疑問が思い浮かべばそれを書き留めるのは有益であり、これを解決するのもより有益である。

 

多少不足な感じを否めないが、3つの種類の考え事は書き残した方が良い事を私は感じているので、それを紹介した。これらの行為を通じて私は自分の持っている思考のパターンや追い求めるものが明確になってきている。あまりこのような個人的な勉強法を伝授するのは宜しくないと言うくせに、このようなものを書きたくなったのには理由がある。私の周りには思いのほか物事を深く考えようとする人がおり、中には隘路に困っている人もいるからだ。そのような人達が普段どのように思索を行っているのか分からないので、とにかく書き残しを行うことを勧める以上のことは出来なかった。何かしらの自分の体系を構築するためには断片的な情報をまず生みだし、それを最終的に統一的な立場から断片を編纂する手法が良いと思われる。最初から何もかも体系立ててやる必要は無いということは明確にしておきたい。断片は沢山生れるも、体系化されない場合も当然ある。

    ここまで私の形式をとりあえず書き残したのであるが、重ねてこれが何らかの思索を行う人の役に立てば良いと願う。体系化する際にも、なによりそれまでに考えられていたことが書き残されていることが重要なのだ。そのためには、書き残しを作らなくてはならない。

 

****例によって、少し朦朧としたまま書いた文であるし、最近は私の文章が著しく悪文になってしまっているようにも思えるので、後々細かな修正を加えていく。

結構、自分が悪文を書いているのではないかというのは最近の1番の悩み事であり、そうでないと願うが、もし悪文であると感じた読者がいれば素直に指摘をして頂けると幸いである。

肉食と菜食の仲立ち

§ 強弁(自戒)

 ネット上では、自説に縋り付いて何もかもをその自説で吸収し、独自の展開を繰り広げる人物がいる。その時点ではあまり問題にはならないのであるが、この自説を基に真っ当な意見を言うものに噛みつく人物がいる。そしてその自説を持つということは尊重されるべきではあると思うが、その説の為に他の(例えば科学的根拠と主張できるようなデータ)領域を絡めて説を強弁するような事はあってはならない。

 このような強弁を行う人物は大概相手するだけ無駄なのであるが、その見かけ上の正しさゆえに中性的な意見の持つ本質的な作用が毀損されてしまうことが懸念される。

 ある病気について、遺伝と環境の二項に持ってきたとしよう。その時にある点では遺伝の影響があり、ある点では環境の影響が大きいと言う人物は物事を冷静に弁別できているとは思うが、そのためには物事について詳細に情報を持ち合わせる必要がある。
 これに対して「遺伝が全て」「環境が全て」というのは非常に簡単に理解でき、詳細を無視して議論が可能になる。どちらもあるとされているものがあったとして、目的を決定してからその証拠を恣意的に集めることは造作なく、仮に遺伝についてのデータだけを集めたとすれば、ある事象についての遺伝についての面だけが主張可能になってしまう。これは事象の実態に対する恐ろしい行為で、実態を幻惑することに繋がるだろう。

 物事を弁別してその実態を知ることは議論において要であると考える。確かに極端な立場がある程度必要な訳ではあるが、前提をよく吟味されていない状態でそれが行われるのは単なる事実のイデオロギー化でしかない。極端な立場が許されるのは極端な立場に立つことで有益な議論を展開できる人物だけではないだろうか。

 遺伝と環境に限らず、肉食と非肉食についてもこれは言える。実態として、私たちの多くは肉食について考える事は少なく、その危険性を危惧することは稀であると言える。今や食卓に肉が上るのは、私たちが貨幣で買い物をする時の違和感のなさに近いものがある。(しかし当然、貨幣経済と肉食を全く同じようになぞらえることはできない。)

 特に最近はヴィーガン叩きが苛烈であるが、そこで叩かれる大概のものは、ストローマンとしてのヴィーガンである。とっくに他のヴィーガンはそれについて反論しているのに、飽き飽きするほど同じような批判が繰り返されており、嘆かわしいばかりだ。しかし、あの叩き行為ほど人を集めることはない。叩きやすいものは叩いておくの精神で、叩くことによって優越感が得られるならば、叩く側の勢力はより大勢に。また強くなることは不思議ではないだろう。

 

 

§ ヴィーガンvsアンチヴィーガン

 ヴィーガン叩きの際に主張される紋切り型の文句は多い。例えば

1.肉食は駄目なのに草食が許されるのはおかしい(あるいは動物だけが特別扱いされるのはおかしい)

だとか

2.肉食は人間が今までに狩りをしてきている伝統を示すものである

とか。とりあえずよく見る二つを例に挙げたが、1にだけ反論を行う。簡潔にするために2への反論は省略する。

 1.についての私の見解は、動物だけを特別扱いすると言うときに、言うまでもなく無意識に人間を特別扱いしていることがまず誤りで、次に、少なくとも他の動物が痛みを感じうる状態である事実を棚に上げて草食を批判し、まるで植物を食べる事と動物を食べることを同じことのように語るのが誤りだというものだ。

 ”動物”を特別扱いすることに疑問を覚えているのは、私たち人間も動物であることを見落としている可能性がある。私たちが友人を特別扱いするときに人間であることを確認する必要は全くない。私たちは犬や猫とも親しくしてきたであろうし、それは必ずしも食べるためではなかった。そもそも、狩りをせずに農業の一部と看做される畜産を通じて生まれた肉を食べている人間が大部分の現代で、なぜ狩りが正当であったころの話が出てくるのか。甚だ疑問である。人間は人間以外の動物と違うのは確かで、愛着も湧きやすいかもしれないが、湧きやすさはここで問題にはならない。なぜなら、そういった主観的すぎる感情を議論の俎上に持ってくるとなんでもありになるからだ。

 このような主張をする人の一部には、家畜は家畜用に品種改良されたのだから食べるべきであると言う突飛なことを言う者もいる。これは、人を殺していけにえに捧げる習俗があるところでいけにえが正当化されるのと同じであろう。この人は、親が「お前を奴隷にするために産んだ」と言われるときにそれを受け入れるのか。もしそれを受け入れるべきであるとするならば、そのことが人間の中でさえ他人の自由を侵害することを正当化するという事について、どのように思うのかを伺いたい。

 また、動物が痛みを感じるかどうかは分からないという主張もある。これに関しては実に根源的な問いであると私は思うが、そもそも人間も動物の括りに入れて考えてみて欲しい。

”あなたは、隣人が殴られた時に(心以外に)痛みを感じているのだろうか。

もし感じていないときに、その隣人が殴られた痛みを尊重しなくても良いのか。”

 この問いかけにおいて、共通の認識を持つことを私は望むが、中には自分以外の痛みなどどうでも良いと言い張る人物がいる。尊重しなくても良いのかどうか、は確かに議論の余地を含むものであるが、自分が同じように尊重されない立場を想像してみれば、他人が訴える痛みには耳を貸す意味があると少なくとも言えるのではないだろうか。人間以外の動物には人間とのコミュニケーション能力が無いからといって軽視することは恐ろしいことであるように思う。人間の間でも、その心的機能を劣等なものとされたり、未開であるとレッテル張りをされた歴史があったが、これと人間以外の動物の搾取にはどのような違いがあるだろう。

 そもそも自分と他人の区別が曖昧なままに、人間と動物などという括りでその意識の有無を議論するのには無理があるように見えてくる。

 踏み込みすぎない程度に詳しく述べたのであるが、他の過激なヴィーガンから攻撃されたりするなどの経験を持った悪意ある人物からではない限りこれらの主張は素朴なものとして発されるものだ。ここで述べたような事について真剣に考えた末には、あのような疑問を悪意なしに発することはできない。中には特定のビタミン欠乏に関する懸念であるとか、野菜が合わないだとか、肉食が完全になくなるのは文化の毀損だとかの建設的な意見もあり、確かにこれは慎重に吟味されるべき問題ではあるものの、ここで曖昧にしてはいけないのは、他人が痛みを感じることを認めるならば、(人間以外の)動物が痛みを感じないことを主張できないし、他人の痛みを尊重するのであれば、(人間以外の)動物の痛みを尊重しなくて良い事にはならないことだ。

 この倫理観について議論される余地を認めたとしても事実は変わらない。少なくともこの私、あるいはこれを読んでいるあなたは痛みを感じるのだ。

 しかし、現実の問題として、いきなり全ての肉食を辞めることは難しい。それに、今回は食にだけ的を絞って話をしたが(これが良くないのかもしれない)、動物の搾取が行われているのは食事の為だけではない。

 もし、本当に動物を害することに疑問を覚えるのならば、Reducetarianを始めてみると良い。肉食をReduceすることから初めて、体調と相談しつつ意味のない殺しを抑制するのが最初の一歩でも全く問題ないはずだ。肉食の害もあるが、肉食しないことの害もある。私たちはどちらの害も知っているのだから、その折衷をすればよいだけである。問題になるのは意識ある動物の搾取行為であることを私は主張する。これを無批判に受け入れてしまうのは、そもそもあらゆる悪事を正当化しかねないことになるので、自分で詳しく考えてみる必要がある。もし、じっくり検討したうえでなにがしかの正しい帰結として肉食が正当化されるのならば、私はそれを尊重する。

(しかし、それは少なくとも現在の肉食の有様を肯定することにはならないだろう と、私は勝手に想像する。)

 

https://reducetarian.org/

 

最後に述べておくが、私が語ることはあくまでも私の考える事であって、例えば肉食をするあなた個人の否定を行う意図はないし、私がここでの考えを引っ込めることもあり得ない話ではない。また、ここで誰かを責めるつもりは一切なく、啓蒙しているつもりもない。公平に、何がどうであるのか想像するための助走として役立つことを望み、これらの記事の内容を基に肉食者の攻撃を行うなどはあってはならない。

 

冒険の味

 学校の課題を根詰めて終わらせて、その後に飲むマリアージュフレールマルコポーロは至福の味であった。 

マリアージュフレール マルコポーロ 100g [並行輸入品]
 

  この紅茶にはちょっとした思い入れがあり、高校生の頃に定期試験や資格試験を終えて、新しい”次の旅”への意気込みと区切りとして飲んでいた。貧乏な当時の私にとっては最上級の高級品であり、当然これを飲むときの記憶はこの紅茶の香りとともに記憶される。

 先日、これがAmazonにあるのを知って購入し、またもや課題を終えて飲んだときには過去と変わらぬフレーバーにより過去の記憶が想起された。私が別媒体のNoteで書いた月の色のように、マリアージュフレールのこの香りはそれぞれの努力の喜びを私に追体験させた。おそらく、日常的に飲んでいたらこのように感じることはなかったように思う。

 長い人生を通じて、ある特定の条件の時だけに一定の事をするというのは、わりかし意義深いことなのではないか。

 ところで、レミニセス・バンプ(Reminiscence bump)というものをご存じだろうか。専門の領域外なので下手な解説を付すことは避けるので、理解は気になった人のリテラシーに任せるとして(これを切っ掛けに心理学に明るい友人と議論するのも良いだろう)、今20代の私は、将来的にそのような記憶として強く残る時間を生きていると言える。無論、これだけが全てではないし、高齢と言えるほど長生きするかなど分かりもしないのだが、このことを知って、今この時をできるだけ素晴らしいものにしていこうと前向きに思う事ができるようになった。

 

現在でも見れるかは分からないが、記憶についてはこの講習会の資料が詳しく、わかりやすい。

https://ci.nii.ac.jp/naid/40018888707